「凡人」と「天才」。
 
 
 
 
この記事のタイトルで映画のシナリオのすべてを表してしまう。「神が愛でし者=アマデウス」が天才で、サリエリは俺たち凡百の代表というわけだ。
 
 
ワーナー・ホーム・ビデオ
アマデウス
 

とは言うものの、このサリエリ、当時の音楽エリートだ。まず生まれが違う。イタリア人だ。下品で粗野なドイツ語を話さない。正統的な音楽教育をうけ宮廷楽士に任用されている。名声も高い。何の不足もない一流の音楽家なのだ。実はサリエリは俺たち凡百とは天と地ほども違う。本当は。

 

だが映画を見ていると俺たち凡百はサリエリを自分に重ね合わせて見てしまう。天真爛漫なモーツァルト。ロバのような間抜けな顔。素っ頓狂な馬鹿笑い。ガキのような振る舞い。これがあの神童とうたわれマリー・アントワネットの前でチェンバロを弾いてご褒美をもらい褒められた天才なのか?

 

サリエリがモーツァルトの天才を悟る有名なシーンがある。コンスタンツェと戯れるモーツァルトをよそに、ふと譜面台に置かれたパート譜を見るサリエリ。

 

「<グラン・パルティータ>十三管楽器のためのセレナーデ」だ。二楽章アンダンテの冒頭。ホルンとバセット・ホルン(クラリネットの仲間)のくすんだシンコペーションで始まる。

 

字幕では「手風琴」と訳される言葉はアコーディオンだ。だがおそらくはライエル というドイツの吟遊詩人が使っていた鍵盤付きの、こすってならす弦楽器を意図していると思う。そのがーがーいう音から、ハーディ・ガーディ とも言われる。大正琴のような弦楽器だ。音が連続することからオルガンのようでもある。「ハーディ・ガーディ」のニックネームをもつセレナーデもモーツァルトは書いている。

 

とにかく洗練された音ではない。ゆっくりで優美であるべきアンダンテ楽章がこんな間の抜けた音から始まるとは・・・。するとなんと!オーボエが・・・・・・!神よ!天から優美に舞い降りるみ使いのごとき旋律が!!この世の者とは思われない美しい響き!クラリネットがそれに答え・・・・。

 

天才だ・・・・。

 

サリエリの陶酔に見てる俺たち凡百も酔ってしまう。サリエリを狂言回しにモーツァルトの天才ぶりをいかんなく伝える素晴らしい場面だ。俺はこの場面のサリエリからそれを教えてもらった。

 

ドン・ジョバンニ冒頭の恐ろしい音響、交響曲25番のシンコペイションがメインテーマになって、父親との確執もストーリーの重要な軸になっているのだが、俺はそちらにはあまり興味がなかった。

 

前半の、コンスタンツェとの結婚記念に書いたハ短調ミサ。ザツツブルグのコロレード大司教に書くことを約束しつつ未完に終わった大ミサ曲。

 

これがまた素晴らしい曲で、コンスタンツェが歌うために書かれたソプラノのソロ!一音一音に羽が生えて高みに舞い上がる。恋愛の陶酔に近い。もはやモーツァルトは宗教音楽に興味を失っているのだ。

 

結婚後取り組む「フィガロ」。アルマビーバ伯爵の歌う「コンテッサ ペルドーノ(許せよ、奥方)」の旋律がずっと流れる。オペラで成功を夢見たモーツァルトの会心作だ。

 

(この項続く)