まず、父が出てきたらそれは神を表すw
神、すなわちキリストだ。当然だろ?説明は不用。
不平不満をたらたら言うガキが出てきたらそれはイスラエルの民を表す。
エジプトで酷い目にあっていたイスラエル民族が、モーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナンに至るまで、四十年にわたる荒野の旅を知らないわけないよな。
モーセも荒野の四十年も知らなければ「カラマーゾフ」読んだって、この映画見たって意味がわかるわけないだろw
チャールトン・ヘストン主演の「十戒」を見ていなくて映画のblogなんか書くなよなw
映画に出てくる弟イワンは、飯を食え、と言われて「いらない」と言い、車に乗ってから「腹が減った」と言ってただろ。あれだよ。荒野のイスラエル人たちは、ことある毎にモーセに不平不満を言い立てた。
「エジプトで奴隷だったときのほうがよかった、エジプトに帰りたい、お腹すいた、疲れた、水飲みたい・・・・。」
その度に天からはマナが降り、うずらが与えられ、メリバの岩から水すら涌いたのに。
映画の父も、弟イワンの不平不満にその都度応えている。ある場合は、ここで下りろ、ここで釣りがしたいんだろ?と望みを叶えてやる。自分の言葉に責任を持てないガキは自分の愚かさの故に酷い目に遭う。
そうやって、従うべき神に背き、挙げ句の果て、キリストを十字架に架けて殺してしまう。それがイスラエルの民だ。神に選ばれし民族、イスラエル。
十字架に架けて殺した後に、神であったことを自覚する。
この映画でも、ずっと父を「あの人、あいつ」と言っていたイワンが「パパ、パパ!!」と叫ぶのは最後の場面だ。ここで泣かない奴はこの映画の意味が全くわからないガキだけだ。
父は、キリストの似姿となって昇天していくかのように水に沈んでいく。
空っぽの父の車は、あたかもよみがえったキリストの空の墓のようだ。三日後に墓からよみがえったキリストの墓には遺骨も遺体もない。あるのは、父が大事にとっておいた子供の頃の兄弟と母の写真。父の愛の痕跡。
父はもはやこの地上にいない。大きな愛情の痕跡だけが残されている。
・・・・って具合に、キリスト教を読み取りたいならこのくらいやってみろ。
こんなことはまったくどうでもいいことだ。映画「父帰る」はキリスト教のことなんか知らなくたってよくわかる映画だ。
団子とすすきと月があれば「お月見」だ、とわかる程度のことだ。それがどうした?と言えばいい。
言ってみれば、キリスト教風味はただの通俗だ。ロシア正教のことを知っている人に、そのことを下敷きに見せてやったらわかりやすい、という程度のことなのだ。
宗教的隠喩やほのめかしなんか全部通俗。
通俗を見るのもひとつ。通俗を廃して普遍に目を凝らすのもひとつ。
俺はどっちもやってみる。
このくらいのことを書いてくれよ、映画blogを書いている、にいちゃん、ねえちゃんたち。
おばちゃん、おじちゃんたちももっと映画をよく見て、目を凝らして見て、見たことをちゃんと書いてくれよ。見なくちゃわからないことを教えてくれよ。見なくてもわかることばかりコピペしても全くの無駄。
神、すなわちキリストだ。当然だろ?説明は不用。
不平不満をたらたら言うガキが出てきたらそれはイスラエルの民を表す。
エジプトで酷い目にあっていたイスラエル民族が、モーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナンに至るまで、四十年にわたる荒野の旅を知らないわけないよな。
モーセも荒野の四十年も知らなければ「カラマーゾフ」読んだって、この映画見たって意味がわかるわけないだろw
チャールトン・ヘストン主演の「十戒」を見ていなくて映画のblogなんか書くなよなw
映画に出てくる弟イワンは、飯を食え、と言われて「いらない」と言い、車に乗ってから「腹が減った」と言ってただろ。あれだよ。荒野のイスラエル人たちは、ことある毎にモーセに不平不満を言い立てた。
「エジプトで奴隷だったときのほうがよかった、エジプトに帰りたい、お腹すいた、疲れた、水飲みたい・・・・。」
その度に天からはマナが降り、うずらが与えられ、メリバの岩から水すら涌いたのに。
映画の父も、弟イワンの不平不満にその都度応えている。ある場合は、ここで下りろ、ここで釣りがしたいんだろ?と望みを叶えてやる。自分の言葉に責任を持てないガキは自分の愚かさの故に酷い目に遭う。
そうやって、従うべき神に背き、挙げ句の果て、キリストを十字架に架けて殺してしまう。それがイスラエルの民だ。神に選ばれし民族、イスラエル。
十字架に架けて殺した後に、神であったことを自覚する。
この映画でも、ずっと父を「あの人、あいつ」と言っていたイワンが「パパ、パパ!!」と叫ぶのは最後の場面だ。ここで泣かない奴はこの映画の意味が全くわからないガキだけだ。
父は、キリストの似姿となって昇天していくかのように水に沈んでいく。
空っぽの父の車は、あたかもよみがえったキリストの空の墓のようだ。三日後に墓からよみがえったキリストの墓には遺骨も遺体もない。あるのは、父が大事にとっておいた子供の頃の兄弟と母の写真。父の愛の痕跡。
父はもはやこの地上にいない。大きな愛情の痕跡だけが残されている。
・・・・って具合に、キリスト教を読み取りたいならこのくらいやってみろ。
こんなことはまったくどうでもいいことだ。映画「父帰る」はキリスト教のことなんか知らなくたってよくわかる映画だ。
団子とすすきと月があれば「お月見」だ、とわかる程度のことだ。それがどうした?と言えばいい。
言ってみれば、キリスト教風味はただの通俗だ。ロシア正教のことを知っている人に、そのことを下敷きに見せてやったらわかりやすい、という程度のことなのだ。
宗教的隠喩やほのめかしなんか全部通俗。
通俗を見るのもひとつ。通俗を廃して普遍に目を凝らすのもひとつ。
俺はどっちもやってみる。
このくらいのことを書いてくれよ、映画blogを書いている、にいちゃん、ねえちゃんたち。
おばちゃん、おじちゃんたちももっと映画をよく見て、目を凝らして見て、見たことをちゃんと書いてくれよ。見なくちゃわからないことを教えてくれよ。見なくてもわかることばかりコピペしても全くの無駄。